神楽坂「伊勢藤」
昔、神楽坂あたりに住んでいた。
この頃の私は、酒そして人とつきあい方がよくわからなくて、
今より荒れていたなぁ。
いろいろな思い出がある街。
それが私にとっての神楽坂。
この街をふらふらしながら、
いつも気になっていたのが、名店「伊勢藤」。
何の店かもよくわからなかった。
夕方、風情のある建物の前を通るとぽんやりと中に灯り。
たくさんの人のいる気配がするが、
がやがや、ざわざわという音はない。
女子の黄色く甲高い声もなし。
ここが日本酒のぬる燗が絶妙な「伊勢藤」ということを
知ったのは、それからしばらくたってからだった。
行きつけの店のママに、
「あそこはしゃべったらいけないんだって。
“お静かに”って注意されるらしいわよ。
だから私たちは行けないわね」
などという話も聞いていた。
いつかここに行ってみたい。
酒を呑めば呑むほど、そう思うようになった。
そして少し前にネットで調べてみると、
店主は三代目になったそうで、
もちろん静かにお酒を愉しんでほしいということは変わらずだが、
なんだか行けそうかも…と感じた。
そんな話をしたところ、
特派員T氏が「行きましょう!」と言ってくれたのだった。
18時に待ち合わせをして、店に向かう。
小さな戸をくぐって中に入ると、
すでにほぼ満席。
囲炉裏の横にある木の4人掛けの椅子に案内される。
「お燗でよろしいですか」とお店の女性。
「はい」
私とT氏、どちらも声が通る。
なのでいつもより声を小さく。
小さくしたところで、話は筒抜けの声質なのだが。
お酒は「白鷹」のみ。
お料理は一汁三菜とお酒に合う「くさや」や「いなご」など10点前後。
卵焼きなどがまず届き、お酒を待つ間に
店内を眺める。
お座敷も2つあって、想像していたより広い。
大声ではないが、結構みなさん楽しそうに話をしている。
やっと緊張がほぐれてくる。
そして、いよいよ白鷹が到着。
猪口は瓢箪が透かし彫りされた置き台に乗ってやってきた。
最初だけ注ぎ合って乾杯。
するすると体に入る。
2杯目は味わいが変化して、すっきりとした辛さが
後口に広がる。
あっと言う間に1合。
徳利が空く頃、店主を囲む席が空く。
「こちらに移りますか」と声をかけていただいたので移る。
1つ1つ、丁寧にお燗をつけていく店主。
その姿を拝見しながら、
もう1合。
しっとり、しみじみ。
素晴らしい時間を過ごしたのだった。
憧れている店だからこそ、
期待は大きい。
「こんなのだったのか」と落胆したらどうしようと
少し思っていた。
しかし、本当に良い店だった。
勇気を出して、来て良かった。
毘沙門天を通って、さて、もう1軒。